(この記事はぜひ第1回『「一度しかない人生だから」と20年前にインターネットを仕事にした男』から続けてお読みください。)
Yahoo!検索ガイドでは、Yahoo!検索に関わるさまざまなスタッフたちのサービスへのこだわりを紹介しています。しかし、「Yahoo!検索」そのものについてのこだわりを紹介する機会はなかなかありませんでした。そこでYahoo!検索ガイドでは、今回あるひとりのスタッフにYahoo!検索の20年の歩みを聞くことにしました。
2016年5月17日、NHK NEWS WEBに「Yahoo! ネット検索の20年」という記事を掲載していただきました。そこに登場したのは、検索事業本部サーチクオリティ部の部長である宮崎光世です。
そして2016年6月3日、Yahoo! JAPANの全社社員大会「YM9」が両国国技館で開催されました。そこでは、勤続20年の社員2人と、20歳の社員2人がトークをするコーナーがありました。勤続20年の社員として登場したひとりは宮崎光世。紹介VTRでの彼の肩書きは「Mr.検索」でした。
そもそも、Yahoo!検索が現在の検索結果画面に至るまでには、どんな物語があったのでしょうか? Yahoo!検索ガイドでは、「Mr.検索」を迎えてこの20年を振り返ってもらいました。彼の言葉を全3回に渡ってご紹介します。
ご紹介するのは、Yahoo!検索の20年であり、インターネットを愛したひとりの男性の20年です。
今回は第2回。第1回「『一度しかない人生だから』と20年前にインターネットを仕事にした男」から続けてお読みください。
(中央が『YM9』での宮崎光世。撮影:Yahoo! JAPAN公式カメラ隊)
第2回 :「ウェブで人間の知識をすべて体系化すること」を目指したYahoo!カテゴリ
――入社初日から徹夜だったと聞きました。当時のYahoo! JAPANの雰囲気はどういうものでしたか?
宮崎 汚い職員室か編集部みたいでしたね、実際に横で雑誌(『Yahoo! Internet Guide』)も作っていたし。昼もなく夜もなく働いていました。
――活気はありましたか?
宮崎 超ハイテンションで、すごく盛り上がっていましたね、「会社」って感じでもなくて、「サークル」でもなく、不思議な......革命を起こすのを裏で画策している人たちみたいな(笑)。特にYahoo!カテゴリを作る「サーファー」は思想的にも変わった人が多かったですね。
――当時の会社の人数はどのぐらいでしたか?
宮崎 全部で30人ぐらいでしたね。
――そして、Yahoo!検索のルーツであるディレクトリ型検索エンジンのYahoo!カテゴリを担当されます。当時のカテゴリの思想はどういうものだったのでしょうか?
宮崎 インターネットのウェブというものは、ハイパーリンクが特徴であり本質ですよね。その本質を極める。そこに純粋に立って、「ウェブというものが人間の知識を体現すること」を目標として使命感を持っていましたね。
――カテゴリはどういうものだと言えるでしょうか?
宮崎 情報検索とは、図書館情報学の流れにあります。知識は本によって共有されてきましたが、図書を分類する体系があるんです。本の中には目次があって、ページがあって、後ろには索引がある。目次から情報を探すのは、リンクからカテゴリを降りていくことにあたるし、索引で単語から探すのは、キーワード検索にあたります。今はサイトという「本」がすごく多いので検索で探すしかないけど、当時はそれほど多くもなかったので、体型的な分類や組織化が有効で、カテゴリを作っていたし、今もあるわけです。
――若い方だと、カテゴリのようなディレクトリ型検索エンジンを知らないこともあると思います。
宮崎 難しいのは、「サイトが少ないインターネット」を想像できないことですよね。ネットサーフィンが当時ならではの面白さに満ちていたことは、体験しないとわからないんですよね。 初期のインターネットの発信者は面白い人が多くて、面白いものに当たる確率が高かったんですよね。
――当時のカテゴリの作業とはどういうものだったのでしょうか?
宮崎 カテゴリは「サイトを登録する検索エンジン」と言われるけど、知識の体系を作ることがとても大事なんです。自動車、地域、エンタメなど、いろいろなジャンルの生き写しを体系として構築して、それぞれのサイトを紐付けていくのが大事なんです 。そこに注力していました。伏線のようなもので、ナレッジグラフも今は同じテーマに戻っているんです。世の中そのものを知識体系としてインターネットで表現することが大きなテーマになっていて、大きな螺旋階段みたいに戻ってきています。
――カテゴリの長所はなんでしょうか?
宮崎 全文検索のAltavista、Lycos、Infoseek、Exciteは、当時は優秀だけど一般の人には使えないものだったんです。検索の達人なら、いろいろな検索キーワードを使いますけど、全文検索はうまく検索結果を返すことができていなかった。たとえば、会社名で検索しても公式サイトを返すのができなかったんです。アーティストも、当時は公式サイトを持っているほうが少なかったから、アーティストのリストがあったほうが、ネットサーフィンには使いやすかったんです。今はインターネットに直接情報を求めるけれど、昔は「インターネットには何があるんだろう?」と図書館に本を眺めに行っている感覚でしたよね。カテゴリはそういう用途に今でも向いていると思います。
――逆に短所はなんでしょうか?
宮崎 とにかくしんどかったです(笑)。処理しきれないぐらいサイトの登録依頼が来て、スケーラビリティとしてメンテナンスが大変でしたね。最初からスケーラビリティを考えていたら、カテゴリなんてできないですよね。
――そうした人力メインだった時代を今振り返ってみてどう感じますか?
宮崎 なぜ人力の仕事を選んだかというと、インターネットを体感したかったんです。「インターネット100%の人」になりたかったんですよね。何十万のサイトに触れるんですけど、そういうところが勉強になりましたし。普通の人が発信できるインターネットは、最初からロングテールで多様性があったことを、人力でやりながら体感できたんです。何年も何年も、来る日来る日も、それをやっていたわけですから。
――カテゴリの登録作業をしていたのは何年でしょうか?
宮崎 3、4年ですね。Yahoo!カテゴリに日本全国の地域のカテゴリをリリースしたのもあって (2001年3月27日に約3400の地域別カテゴリを作成。『地域密着情報サービス「Yahoo!地域情報」の提供を開始 Yahoo! JAPAN内に約3400の地域別ポータルが出現!』)、あそこが人力でやれるスケールの作業の最後のあがきでしたね。日本の当時3400市町村のカテゴリを一気に作ったんですよね、機械の力も借りながら。
――当時のYahoo!カテゴリの競合にはどんなものがありましたか?
宮崎 CSJインデックス、NTTディレクトリ、LookSmartとかですね。ただ、徐々に撤退していきました。人力の限界で。
――なぜYahoo!カテゴリだけ生き残ったのでしょうか?
宮崎 さっき言ったような分類についての考え方が全然違っていたんです。「人間の知識を全部体系化するんだ」とYahoo! JAPANは考えていたんです。他は2、3階層ぐらいでざっくりしていたけれど、それだとサイトの登録が増えてくと、探せなかったんですよね。今のナレッジグラフの根幹にオントロジーがあるように、「今の世の中がどうなってるか」をコンピュータでどう表現するのかを考えていたのはYahoo! JAPANだけ。最初はそういうことを何も知らなかったけど、Yahoo! Inc.のサーファーから教えもらったんです。カテゴリ自体がナレッジグラフの一種ですね。カテゴリは基本的にサイト単位で登録してサイトを組織化して、そのうちページ単位でも登録していったけれど行き詰まった。ナレッジグラフは直接情報を打ち込んでるんですよね。